ちょっとしたヒント
- 素直に引き受けて、あとに「でも」をつけないで。
- 自分がした、まさにそのことを名指ししましょう。
- 正すために、できることを申し出ましょう。
あなたは「ごめんね」と言いました。本気で言いました。なのに、なぜか部屋の空気は、あたたかくではなく、冷たくなりました。相手は腕を組んだか、黙りこんだか、「べつにいいよ」を、それが「べつによくない」を意味するあの声で言いました。
もしそんな経験があるなら、あなたは人間関係が下手なわけでも、悪い人なわけでもありません。情報が足りていないのです。あやまりは、小さくて具体的なひとつのコミュニケーションで、何がそれを効かせ、何がそれを空ぶりにさせるのかは、かなり分かっています。私たちのほとんどは、そのどれも教わりませんでした。子どものころに「ごめんなさいと言いなさい」と言われ、あとは自分で見つけてね、と放っておかれたのです。
だから、その「あと」を、いっしょに見つけましょう。
なぜ「ごめんね」だけでは足りないことが多いのか
ここにわながあります。あやまるとき、私たちはたいてい自分のことを考えています。罪悪感を止めたい、丸くおさめたい、ふつうに戻りたい。だから、善意を示すいちばん速い言葉に手を伸ばします。「ごめん、そんなつもりじゃなかった」。「ごめん、ちょっとストレスがあって」。「そんなふうに受け取らせてごめん」。
これらすべてに共通するものに気づいてください。どれも自分についてです。自分の意図、自分のストレス、自分の潔白。あなたが傷つけた人は、自分が「相手に」何をしたかをこちらが分かっている、と聞こうと待っているのに、こちらはその瞬間を、自分を弁護することにしてしまったのです。
それが核心です。よいあやまりは、焦点を、あなたの意図から、相手の経験へ移します。カリフォルニア大学バークレー校のグレーター・グッド・サイエンス・センターは、はっきりこう言います。意図より、影響のほうがはるかに大切だ、と。傷つけるつもりがなかったのは本当のことで、そしてそれは、修復の瞬間には要点ではありません。それでも相手は傷ついた。「そんなつもりじゃなかった」で始まるあやまりは、修復ではなく、弁護として届きがちです。
本物のあやまりは、何でできているか
2016年、交渉の研究者ロイ・レウィッキとオハイオ州立大学の同僚たちは、まさにこの問いを調べました。彼らはあやまりを、ありうる構成要素へと分解し、そのうち一つだけから全部までを含む版に、750人以上がどう反応するかを試しました。その結果は、あやまりが実際に何を必要とするかについて、私たちが持つ最も役立つ地図のひとつです。
彼らは六つの要素にたどりつきました。どの状況にもすべてが要るわけではありませんが、心からのあやまりがそのうち多くを含むほど、よく受けとめられる傾向があります。
- 後悔の表明。素直な「ごめんね」。
- 何がまずかったのかの説明(慎重に使うこと。これについては後述します)。
- 責任の認め。それが自分のしたことだと引き受けること。
- 悔いの宣言。違うふうにすればよかった、という気持ち。
- 修復の申し出。正すために何かをすること。
- 許しの願い。
最も大きな仕事をした二つは、私たちが最もとばしたくなる二つでした。責任を認めることが、単独で最も強力な要素でした。「これは私のせいだ、まちがえた」とはっきり言うことが、何よりも、あやまりが本物だと相手に感じさせました。修復を申し出ることが二番目でした。そして人がいちばん頼った要素――許しの願い――は、最も効きませんでした。レウィッキ自身のまとめ。どうしても省くなら、それを省けばいい、と。
これをひと呼吸かみしめてください。私たちのほとんどのあやまり方と、まるで逆だからです。私たちは「もう仲直りできた?」(許しを願うこと)へ急ぎ、自分が何をして、どう直すかをはっきり言う部分を、とばしてしまうのです。
自分が実際にしたことを言う
「動揺させてごめんね」と「友だちの前できつく言ってごめんね」のあいだには、静かな違いがあります。前者は、たまたまあなたの近くに落ちた気持ちを名指します。後者は、あなたが取った行動を名指します。
具体的なことを名指しましょう。「何かしたならごめん」でもなく、「もし傷つけたならごめん」でもなく。「もし」という言葉は、あやまりを仮説に変えてしまいます。本当のことを言うのです。「あの会議であなたを三回さえぎって、あなたを小さく見せてしまった。ごめんね」。具体的であることこそ、相手が不満だと記録するだけでなく、こちらが本当に何が起きたか分かっている、と相手に伝わる道です。
影響も分かっていると示すと、なおよいです。「あれで、私があなたの仕事を尊重していないみたいに感じさせたんだね」は、こちらが相手の経験の中まで距離を越えてきた、と相手に告げます。それが、相手の肩を下げさせるやり方です。
それを静かにぶち壊すフレーズ
あやまりながら人が言う最もよくあることのいくつかは、まったくあやまりではありません。あやまりに見えて、逆のことをします。心理学者はこれを「非あやまり」と呼び、いくつかは名前で知っておく価値があります。手が伸びる自分に気づけるように。
- 「そんなふうに感じさせてごめんね」。 これは悔いに聞こえて、かわしとして働きます。問題まるごとを相手に返してしまい、まるで自分の行動ではなく相手の気持ちのほうが問題であるかのように。人は、それを名指せなくても、そのそらしを即座に感じ取ります。
- 「ごめん、でも……」。 「でも」の前のすべては、その後のすべてに消されます。行動を正当化したその瞬間、あなたはあやまるのをやめ、弁護を始めています。相手が本当に必要としている文脈があるなら、それは「ごめん」に貼りつけずに、あとで、別の会話として差し出しましょう。
- 「完璧じゃなくてごめん」「ごめん、私こういう人だから」。 これらは、具体的な過ちを、あいまいな性格の特徴とすり替え、都合よく、実際にしたことの責任から自分を逃がしてしまいます。
自分を説明することは、ここがやっかいになるところです。説明が公平で、やさしくさえあることも、ときにはあるからです。バークレーの研究からの目安はシンプルです。迷ったら、説明は外す。あやまりのさなかに行動を説明しようとすると、たいてい言い訳に読まれ、焦点が相手にとどまるべきまさにそのときに、それを自分へ引き戻してしまうのです。
そして、もっと難しい部分が来る
言葉はドアを開けます。次に何をするかが、修復がもちこたえるかを決めます。
これが修復の要素で、同じことがくり返し起きるとき、「ごめん」だけがしばしば空ろに響くのは、このためです。毎週遅れることへのあやまりは、金曜にまた遅れるなら、ほとんど意味がありません。修復は、具体的なものでもよいし(「今夜レポートをやり直すよ」)、時間をかけた本物の行動の変化でもよいのです(時間どおりに来る、本当に聞く、もう同じことをしない)。信頼の傷には、修復こそが、変わった行動そのものです。それを回る近道はありません。
締めくくりに、やさしく役立つ問いを。「これを正すために、私にできることはある?」。それは、傷つけた相手にいくらかのコントロールを返し、こちらがただ話を打ち切って先へ進もうとしているのではない、と示します。
あやまりを、相手に合わせる
研究がくり返し立ち戻るのは、たったひとつの台本などない、ということです。同じあやまりが、ある人には見事に届き、別の人には空ぶりになる。人は、修復されたと感じるのに、違うものを必要とするからです。バークレーの研究は、まっすぐこう言います。傷つけた相手に本当に届くには、その人が誰で、何を大切にしているかに注意を向けること。
影響を分かっていると聞くことを、最も必要とする人もいます。何を違うふうにするのかを、知りたい人もいます。子どもはしばしば、大人がまちがえても、それを生きのびられると見る必要があります。子どもにあやまることが、感じる以上に大切なのは、ひとつにはそのためです。まちがいは直せるのだ、と教えているのですから。職場では、あいまいだったり会社的な霧(「ミスがありました」)をまとっていたりするあやまりは、信頼を立て直すどころかすり減らしがちです。誰もが、抜けた言葉――「誰の」ミス?――を聞き取るからです。名前を挙げて引き受けることは、どれだけ取りつくろうよりも、あなたの立場のためになります。
実践的な一手は、小さなものです。あやまる前に、自分にたずねる。この特定の人は、本当は何を聞こうと待っているのか、と。そして、そこから始める。
タイミングと、相手をあなたの予定表から解き放つこと
二つのことが、この部分を本当に難しくします。それを名指すと、助けになります。
ひとつめは、タイミングです。まだ身構えているうちに差し出されたあやまりは、言葉づかいがどれだけよくても、その身構えをにじませます。まだ引き受ける準備ができていないなら、自分が満たないこわばった「ごめん」を放つより、一時間とって自分を整え、戻ってくるほうがよいことが多いのです。人は、つかまってごめんと、傷つけてごめんの違いが分かります。
ふたつめは、誰も好きでない部分です。本物のあやまりは、取り引きではなく、申し出です。それが受け入れられるか、どれだけ速くか、自分の好む予定どおりに許されるかを、コントロールすることはできません。すべてをうまくやっても、「少し時間がほしい」と聞くことはあります。それは許されることです。何かを――許しさえも――取り戻すためにあやまることは、静かに、その瞬間をまた自分についてのものに変えてしまいます。よりきれいな一手は、本当のことを言い、修復を申し出て、それから、相手が感じることを感じる余地をあげることです。
あやまりを受け取る番になったときは、同じ寛さが逆向きに当てはまります。すぐに許す義務はないし、許してもいいのです。どちらも正直でありえます。
もっと難しいものが、下にあるとき
あやまりの問題が、言葉ではないこともあります。そのまわりにあるものなのです。
もし、本当にあやまれないと気づくなら――どんな非を認めることも、自分の存在まるごとへの脅威に感じられるなら――それは恥ではなく、やさしい好奇心に値します。自分が背負うものでもないことに、たえず反射的にあやまり、平和を保つために自分を小さくしているなら、それも同じです。どちらのパターンも、しばしば根を持っていて、セラピストがそれをたどる手助けをしてくれます。
そして、もしあなたが、あやまりがけっして足りない関係――いつも修復するのが自分の側で、あるいは「そんなふうに感じさせてごめんね」を、あなたに自分の現実を疑わせる手段として使われる関係――にいるなら、どうかそれを真剣に受けとめてください。自分の知覚を疑わせてくるくり返しのそらしは、コミュニケーションのずれより害のある何かのサインでありえます。それをひとりで解きほぐす必要はありません。カウンセラー、信頼できる友人、家庭内虐待のホットラインが、そのパターンをはっきり見て、あなたが何を必要としているかを見きわめる手助けをしてくれます。
けれどたいていの場合、あやまりは、私たちが恐れるよりシンプルです。自分がしたことを言う。本気で言う。それを正す。修復は、めったに完璧な言葉を見つけることではありません。その瞬間を、自分ではなく相手についてのものでいさせる――必要なだけのあいだ――その気持ちがあるかどうか、なのです。
参考文献
- Ohio State News, The 6 elements of an effective apology, according to science
- Greater Good Science Center (UC Berkeley), The Three Parts of an Effective Apology
- Psychology Today, 5 Ways to Ruin a Good Apology